「魔法少女まどか☆マギカ」は新房昭之、虚淵玄、蒼樹うめの組み合わせの発票から始まったといえる。
このメンバーでは元々、言葉だけは先にあった「血溜まりスケッチ」を文字通り公式で作り上げると宣言したようなモノと誰もが思っていた。その時点で、この物語が鬱シナリオ以前にギャグでしかないということに気づくべきであったのかもしれない。
そもそも、この作品はここから始まっている時点で、シリアスとはある意味無縁で何も裏切ってなかったのかも知れない。
(以下、ネタバレを含みます)
・お約束の世界の「死」はパロディ
ギャグマンガとして見た場合であるが、この作品はお約束としての「魔法少女」のパロディであることは確かである。それが陰惨で救いが無くても、それもまたパロディをパロっている外し方かも知れない。
この物語が初めて、パロディであると明らかにしたのは3話のラスト、巴マミの死であろう。
たった3話でヒロインとして死ぬはずがないというお約束を破り、なおかつグロテスクなシーンである。6話も同様であるが、「死」そのものが無縁のお約束の世界を裏切っている。
これにより、視聴者は初めてお約束の世界自体が死んでいる事に気づく。
ただ、細かく突っ込んでいけばキリがないくらいギャグとしか見えないシーンが笑えるシーンは多くある。
その象徴がほむらホーム。漫画版、10話改装では畳部屋の普通の空間であるが、アニメ版の他のシーンは謎の空間。明らかに見た目重視の描写である。
「魁!!男塾」はギャグマンガだが、本人にそのつもりはなく真剣に描いていると聞いた事がある。結局、「魔法少女まどか☆マギカ」も真剣にやりすぎた結果、ギャグにしか見えなくなってしまうという現象があるのかも知れない。
実際、虚淵玄も同様なことをTwitter上で語っている。
だが、そういったパロディは最終回で神、「機械仕掛けの神」となったまどかによって、本来の「魔法少女」モノの世界に変えるどんでん返しを見せる。ここで「『魔法少女』まどか☆マギカ」という物語が始まり完結したことを示している。
さんざんパロディでやってきたことは、神の登場で無かった事にされハッピーエンドで終わる。もはや、喜劇でしかない。そもそも、ダンテの「神曲」も原題は「La Divina Commedia」(神聖な喜劇)であるから、間違いなく喜劇。
・ほむらとキュウべぇはギャグ担当
そういったお約束から外れた存在の代表格がキュウべぇ(以下、QB)とほむらだ。
そもそも、QBの役割はお約束しての「魔法少女のマスコット」。だが、実際は物語の敵、悪役という役割も兼任している。
この図式はお約束を逆手に取ったやり方で、まどかの家庭においても意図して、お約束を外している事が見ている側にも示しているの様に感じる。
そして、ほむらだが1話目から怪しい行動が目立って、変態キャラがちらついていたが、10話で完全にまどかのストーカーであることを視聴者に明言させた。
そのことが、二次創作的にほむらの変態キャラを不動にさせる。
ただ、これに関しても1話でQBの敵対者として「魔法少女のライバル」である印象で登場したが、QBの正体が明らかになるにつれ、お互いの役割も逆転する。
そして、ほむらの目的、願いが「まどかを助ける」という点で忠実な「魔法少女を守る騎士」であると事も示している。ただ、この騎士の役も基本、男性であり、マスコット役が兼任する部分もあるがこれも外している。
まどかにとってはこの二人に振り回された存在(もっとも、ループ前のまどかが発端だが)だと視聴者には見えているだろう。本来であれば、まとめ役になる存在がまどかであったはずなのに。
それに両者とも達観した視線(この世界での「魔法少女」を知り尽くしている)を持っているため、まどかのような何も知らない人間には言葉の通じない存在でしかない。
結果的に二人のせいでまどかには物語としての愚者を演じるほか無かった。いわば、まどかという「魔法少女」存在を「道化師」に変えた二人は明らかにギャグ担当といえるのではないか。
ある意味では、ドラえもんとジャイアンの役を交互にQBとほむら、のび太はまどかが演じているといえるのかも知れない。
・ただし・・・
最後に復活を遂げられなかった、さやかだけはこの枠に当てはまらない存在である。
ちょっと、長くなったので後日改めます。