「魔法少女まどか☆マギカ」に関しての感想。前回からの続きです。
よく分析していくと、作品性から逆にギャグの必要性が見えてきました。さやかを軸にそれを見ていきます。
(以下、ネタバレを含みます)
・さやかはシリアス殺し
本作における「魔法少女」としてのパロディに身をもって体験するさやか。投げられ、HP0でも殴られ続ける戦闘、仕舞いには魔女化と、見方を変えればもはや「北斗の拳」の雑魚キャラ同然の扱い。
それもあり、「安定のさやか」とよばれる要素で二次創作される結果となる。
唯一、逆の行動を取るのが8話でのホストとの会話。見ている側にとってもこのホストに因果応報な結果と笑えて、お茶目な一面は披露するさやかと、とりあえず無理矢理ギャグと捉える事もできる。
実際はこの行動が魔女化に至るきっかけであり、決心をさせるシーンでもあるのだが。
余談ではあるが、漫画版で「北斗の拳」において雑魚とのケンシロウのやり取りはギャグ要素として原作者が意図しているという。そして、アニメ版では敵を巨大化など化け物扱いにすることで暴力に対する描写を和らげる努力をしていたという。
元々、グロテスクなシーンで死を描こうとしたら、ある意味で逃げとしてギャグに落としておくのは商業の作品としては常套手段になっているのかも知れない。
どちらにしろ、真剣にやればやるほど、見ている側とのずれがギャグになるのはどの作品でも同じではある。
11話のほむらの戦闘シーンは見せ場であるが、明らかにギャグに見える証明である。
・まどかとさやかの「魔法少女」の対比
さて、そんなさやかだが、10話まではまどかの友人として、「魔法少女」の秘密を共有する存在であった。
実際、「魔法少女」といってもパロディとしてであるが、この二人の「魔法少女」は物語として明らかに別物として対比されている。
これは8話ラストでQBが語っている台詞、
「この国では、成長途中の女性のことを『少女』って呼ぶんだろう?だったらやがて魔女になる君たちのことは、『魔法少女』と呼ぶべきだよね」
言葉通り、その後さやかが魔女になることで少女から女になっている事を意味している。これは上条との恋愛としての関係、「魔法少女」としてのヒーロー像などを通しての変化であることは確かである。
もっとも、魔女化前のホストの会話からも性的な意味合いも隠れていることを臭わせる。行為そのものは別として、この世界の「魔法少女」ではそういった関係は夢であることを自身が告白している点もそうだ。
これらを含めたすべての出来事で、さやかの物語は思春期特有の苦い思い出やある種、正義のヒーローとしての成長課題により、QBの言葉を借りれば結果的に魔法少女を卒業したことになる。
逆にまどかに関しては、同じ8話でQBは以下の事を言っている。
「君が力を開放すれば、奇跡を起こすどころか、宇宙の法則をねじ曲げることだって可能だろう」
「まどか。君は、望むなら、万能の神にだってなれるかもしれないよ」
と今まで契約を取る為に多くを語らず、騙してきた口調は希望を与え絶望させる罠であり、ほむらは必死になって食い止めてきた台詞である。
だが、12話ではその望みを本当に叶え、万能の神を越えた存在になってしまう。
この点でも分かるが完全にQBのお株を奪って、どや顔で見せつけたまどかの願い。今までの話で鬱に浸ってきたとは思えないほどのドラえもんを出せ理論での願いである。
この両者を比較すると「魔法少女」に出会い非日常に直面するまどか、逆に現実的な問題から「魔法少女」の軌跡と対峙するさやか。
・まどかとほむらの結末は正統派「魔法少女」
その一方では10話以降、話の軸はまどかとほむらの友達関係にある。
特に10話、正統派「魔法少女」から本作の「魔法少女」パロディへと変わった経緯が語られ、元々二人は同じ「魔法少女」仲間である明かされる。
12話でこの時間軸で「魔法少女」の願いをいうまどかだが、その願いはすべての「魔法少女」を魔女化させないという、正統派「魔法少女」のロジックを最終回に来て元に戻すという願い。
そして、まどか自身も汚れをため込んでも、願い通り自らの魔女化を阻止する。これは神である前に魔法少女で有り続けるという選択でもある。
この矛盾すらの否定は子供じみた理論であり、その願いもまさに少女である。
だが、さやかだけは救うことは出来ないのは「魔法少女」でなくなった為だろう。
そして、さやかもまどかに説得、実際は自身もすでに納得していたのもあるのだろうが、その世界、自らの行い、選択を受け入れている。
明らかに全編を通してみると、さやかが成長していることが分かる。
まどか自身も子供として母親から巣立つシーンはあるモノの、行動理念は自己犠牲であり、それをほむらに否定され続けてもその結論に至った点を考えると始めからずれてなかった事を意味してそうだ。
12話の予告での台詞がそれを表している。
そして、この物語の真の主人公であった、ほむらも成長課題は無かったといえる。
実際、冷徹に徹して心を閉ざした時点で成長もまた否定される。諦めること、立ち止まることが、絶望しかないとQBが言っている。
ある意味で、ループ、やり直しするということはのび太にと同じ手段なのかも知れない。失敗を無かったことにすることで、何度でも前の成長課題を否定できる。
最終的には「機械仕掛けの神」と化した、まどかによって救われている。
その後、ほむらは12話ラストで荒野を歩いているが、荒野は仲間が誰もいなくなった世界を象徴しているようである。そして、ヒーロー(実際は魔法少女、ヒロインだが)である以上、戦いの宿命(ほむらはまどかの想いを背負って)から逃れられない事を意味している様な戦いは続くというシーンである。
明らかに漫画版「北斗の拳」、最終回の様にいつも通りならず者に決め台詞を吐くような展開ではあるが。
いわば、まどかとほむらの結末は「魔法少女」というパロディを元に戻した正統派「魔法少女」である。
その反面として語られたさやかこそ、正統派「魔法少女」を憧れたが、女として卒業した。これは永遠の存在である「魔法少女」パロディとしてみれるが、この二つの「魔法少女」を比較した場合、この作品の本質があるような気がする。